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2006年02月10日
温故知新の精神に基づき
今日は今や日本各地で愛飲されている「焼酎」の歴史をひも解いてみようかと。。なんにしても順序と秩序が守られないブログでして、こういうテーマはブログ開設時付近でやるものでしょうが、後から後から思いつく次第でして・・。今後も無秩序で、テーマに一貫性がないままブログが更新されていくことを、今のうちにお伝えしときます(笑)。では焼酎の歴史について。
焼酎が伝えられた当時、戦国時代末期、薩摩には赤褐色の味醂のような酒がありました。清酒の一種で、醸造した酒を絞る前に樫・椿などの灰を入れたもので、酸味が中和されて甘くなり、色が赤褐色になりました。 濁り酒もあり、諸白といわれる精白米を使った白濁の酒と、粗白米・玄米を使った色の薄黒い味の辛く酸っぱい酒がありました。
薩摩の人々は酒の醪を蒸留すれば焼酎になることを知ってから、初めのうちはこれらの地酒を蒸留して焼酎をつくっていたものと思われます。 薩摩は火山国で、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌は稲作に不向きで、島津藩は常に米不足に悩んでいました。藩内の物産を他藩で米に替えて不足を補っていました。
慶長17〜18年(1612〜3年)に米の代用食品として、甘藷(さつまいも)がルソン(フィリピン)から坊津町に伝えられたといわれます。甘藷は鹿児島では唐芋(からいも)と呼ばれます。 島津藩の記録では、元禄 年(1698年)、琉球王尚貞から種子島彈正久基に甘藷が送られ、種子島の石寺野で栽培されたのが伝来の初めとされ、当地には碑も建っています。
この記録とは別に、宝永2年(1705年)に山川郷の漁夫前田利右衛門が琉球へ密航して盆栽にした甘藷を持ち帰り、栽培して種芋を育て普及させたという資料が残っています。
甘藷の伝来が正確にいつのことであったかはともかく、米不足の薩摩で、琉球から伝わった蒸留酒の原料に煮米のかわりに煮甘藷を使用するのは当然の成り行きでした。 米麹と煮甘藷と水を一度に甕へ仕込む「どんぶり仕込み」は大正時代の初めまで続いていました。 米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783年)には島津領内に3000軒の焼酎屋があったといわれます。
投稿者 さつまやスタッフ : 2006年02月10日 06:31
コメント
始めてブログを見ました。コメントもなかなか面白いよ!!毎日更新大変でしょうが、頑張ってね☆
投稿者 紘子 : 2006年02月10日 23:14
